カイシャ工房代表の山田です。
先日、とある生徒を教えていて感じたことを書いていこうと思います。
偏差値60を超える高校に通う高校生と、「何をしに大学にいくか?」という問いをぶつけたところ。
びっくりするぐらい何もでてきませんでした。
学校が評価する優秀さと、現実社会での評価が乖離している事例だと感じたため、
ぜひみなさんも考えてみてください。
「何がしたいか」が浮かばない
大学受験に向けて、どの大学/学部がよいかがなかなか決まらないということで、コーチングを実施しました。
「大学に行って何がしたいの?」
この質問がすぐに答えられる学生は、日本には少ないでしょう。
ある程度裕福な家庭や、両親が大卒の家庭では、大学は当然のように行くもので、就職に有利になるからという漠然とした理由しかない学生が多いです。
問題に感じたのは、続けて以下のような質問をしたときです。
- 大学に入って楽しみにしていることは何かある?
- 1週間自由な時間ができたら何がしたい?
- 今なんでもしていいよって言われたら何する?
大学に入ってから、ではなく今何がしたいかもわからない様子でした。
中高生と関わる機会が多いですが、このような学生はそれなりに多いように感じます。
大人にとって都合のよい「優秀さ」
この生徒は、偏差値60以上の高校でそこそこ優秀な成績を収めている生徒です。
与えた課題はしっかりとやってきますし、どんなに部活が忙しくても小テストは合格点を下回ったことがありません。
恐らく学校では先生に好かれる、「良い生徒」なのだと思います。
そんな生徒が、「あなたは何がしたい?」という質問に答えを窮してしまう。
これについてどう思いますか?
これは完全に日本の教育の負の面だと思います。
何から何まで親切に教え、自分で考えることをさせず、大人の言うことを素直に聞くことが評価される。
これを高校まで続けてきた結果、自分では何も決めらず、行動を起こせないようになってしまいました。
何もせず、見守るという教育
ここからは完全に私の持論だと思ってください。
学習塾や学校など、日本の教育現場では面倒見が評価される一つのポイントになってきました。
これ自体が悪いわけではないですが、行き過ぎた面倒見主義が「自分で考えられない」子どもを育ててしまっているのだと思います。
わからないことを自分の力で解決したり。。わからないことにモヤモヤし続けたり。。
自分で何かをきめたり。。自分で決めたことで失敗したり。。
面倒見主義が、このような重要な経験を阻害していないでしょうか?
これからの時代は、さらに答えが不明確で曖昧さを内包した社会になっていきます。
そのような中で、「何がしたいか?」がない人間は非常に生き辛い世の中になっていくでしょう。
どうしたら良い人生になるのか、誰も答えを持っていないのですから。
「何もせず、見守る」という教育も必要だと思います。
失敗することがわかっていても見守る。安易に答えを教えない。自分で決める経験をさせる。
このためには、周囲の大人の我慢が必要です。
すぐに結果を求めず、大人らしく大人しくしていましょう。
子どもは、大人が思っているより逞しいものです。