「無能な人材にならないために」「これに当てはまったら無能確定」——SNSやYouTubeでこんな言葉を見かけたことはありませんか。今回は、私たちが当たり前に信じている「能力」や「努力」をめぐって、教育とキャリアの視点から問い直していきます。
なぜ今「無能」という言葉があふれているのか
最近、ネット上で「無能」という言葉を頻繁に見かけるようになりました。これは単なる流行ではなく、社会の価値観を映し出しているのかもしれません。
「無能」「有能」という二項対立の危うさ
「無能な働き者」「無能な人の習慣」——こうしたコンテンツが急増している背景には、人を「有能」と「無能」に分ける考え方があります。しかしこの構図には、見落とせない問題が潜んでいます。
- 有能と無能で分けることは、結局「序列をつける」ことにつながります
- 序列をつける限り、必ず「無能」とされる人が生まれてしまいます
- グラデーション(段階的な差)ではなく対立構造になると、誰かを切り捨てる発想になりがちです
これを学校の教室に当てはめたら、どうなるでしょうか。「有能な子」と「無能な子」に分かれる教室は、想像するだけでも息苦しいものです。学校は社会の縮図だとよく言われます。社会でこの構図が広がっているなら、教育もその予備軍になりかねないのです。
「能力」は本当に存在するのか
「◯◯力」という言葉を、私たちは日常的に使っています。しかし、実は「能力なんてものは存在しない」と昔から指摘する研究者が少なくないのです。
30年前から指摘されてきた「◯◯力」への疑問
「コミュニケーション力」「情報活用能力」など、私たちは「◯◯力」という言葉に囲まれています。ところが、30年ほど前から「能力なんて存在しないのだから、◯◯力という言い方はやめた方がいい」と主張する人がいました。それなのに、「◯◯力」という表現はむしろ最近になって加速しているのです。当たり前のように使っている言葉が、実はとても曖昧なものかもしれない——そんな視点を持つことが大切です。
テストでは測れない力の例
たとえば「情報活用能力(情報を集め、正しさを判断する力)」を考えてみましょう。テストを作ること自体はできますが、点数が高ければ本当にその力があると言えるのでしょうか。
- 2016年の熊本地震では「動物園からライオンが逃げた」というフェイクニュース(嘘の情報)がSNSで拡散しました
- もしこれがテストの練習問題なら、多くの人が「これは嘘だ」と冷静に判断できます
- しかし実際の災害時、不安な状況でSNSを見ているとき、同じ冷静な判断ができるとは限りません
つまり、テストでできたことが、状況(シチュエーション)が変われば再現できないことは珍しくありません。それでは、その人に「情報活用能力がない」と言えるのでしょうか。能力を測ることの難しさが、ここに表れています。
能力主義が生む「勝者」と「敗者」
能力で評価することは一見フラット(公平)に見えます。しかし、それが社会の分断を生んでいるという指摘があります。
『実力も運のうち』が示したもの
ベストセラーになったマイケル・サンデルの『実力も運のうち 能力主義は正義か?』という本では、興味深い考察がなされています。
- 能力主義(能力で序列をつける考え方)がアメリカで深く浸透しました
- その結果、「無能」というレッテルを貼られた人々の不満が高まりました
- その反発が、トランプ大統領の誕生につながったと分析されています
能力で評価することは公平だと思われがちですが、勝者と敗者という構図を生み出し、社会の生きづらさや不平等につながってしまう面もあるのです。これを客観的に捉え、子どもたちにどう向き合っていくかを考えることが、教育の大切な役割だと言えます。
「自己肯定感を高める」教育の落とし穴
近年、学校で「自己肯定感(自分は自分のままでいいと思える気持ち)」を高める取り組みが広がっています。一見すばらしいこの取り組みにも、実は見落としがちな矛盾があります。
「もっと頑張ろう」は自己肯定感なのか
ある自己肯定感向上プログラムの成功事例には、次のような感想が紹介されていました。
- 小学校:プログラム後、児童同士で「頑張ろう」と声を掛け合うようになった
- 中学校:「夢の実現のために努力することが大事」と考えるようになった
- 「自分にできることを頑張らないといけない」と積極的に取り組むようになった
これだけ聞くと素晴らしい成果に見えます。しかし、よく考えてみてください。自己肯定感とは本来「あなたはあなたのままでいい」と思えることのはずです。それなのに「もっと頑張らないといけない」という結論になっているのは、どこか矛盾していないでしょうか。「頑張らないと自己肯定感が上がらない」のなら、それは結局、能力主義の罠にはまっているのかもしれません。
「努力すれば報われる」の先にあるもの
日本の教育には「努力は美しい」という価値観が根強くあります。しかし、その先に何があるのかを考えると、難しい問題が見えてきます。
頑張っても埋まらない差をどう考えるか
日本の小学校では「頑張れば全員100点が取れる」という前提で授業が進むことが多くあります。
- 漢字テストや計算テストは、何度も繰り返せば100点が取れる仕組みになっています
- 「全員が100点を取れる」という発想は、ある意味で平等主義的です
- 一方、アメリカやイギリスでは「全員が満点を取れる」という前提に立たないプログラムも多く見られます
しかし、同じだけ努力しても、能力によって差がつくのが現実です。「無限に努力してください、能力差で序列が決まります」という社会は、とても息苦しいものです。それは、昔の「生まれた家柄で地位が決まる社会」と本質的に変わらないのかもしれません。「努力すれば報われる」という言葉が、いつのまにか「報われない人は努力が足りない」という自己責任論にすり替わっていないか——立ち止まって考える必要があります。
当たり前を問い直すことから始めよう
今回は問題提起として、さまざまな角度から「能力」について考えてきました。大切なのは、答えを急ぐことではありません。
私たちが当たり前だと思っているもの——「能力」「有能・無能」「努力すれば報われる」——は、実はとても曖昧なものかもしれません。曖昧なものを絶対的に信じて行動していないか、自分自身に問い直してみることが大切です。中高生のみなさんも、お子さんを見守る保護者の方も、キャリアに悩む社会人の方も、ぜひ一度、「能力って本当に存在するのかな」と立ち止まって考えてみてください。その気づきが、もっと生きやすい社会への第一歩になるはずです。
もっと詳しく知りたい方へ
ポッドキャストでさらに詳しく聴けます。
🎙️ ポッドキャストで聴く →