「あなたの個性を大切に」「オンリーワンでいい」——よく聞く言葉ですが、実はこの「個性」という考え方は、時代や社会の事情によって作られてきた側面があります。今回は個性ブームの歴史をたどりながら、私たちが縛られている“らしさ”の正体を考えていきます。
実は100年前にもあった「個性ブーム」
個性を大切にしようという流れは、今に始まったことではありません。歴史を振り返ると、大きく二つの波があったことが見えてきます。
第一次個性ブーム:大正時代
今から100年ほど前の大正時代、「一斉授業は良くない、一人ひとりの個性を重視すべきだ」という第一次個性ブームがありました。背景にあったのは、義務教育の定着です。
- 小学校に9割以上の子どもが通うようになった
- 全員が一斉授業を受け、個性が抑えられている状況が生まれた
- その反動(アンチテーゼ=対抗する考え方)として「個性尊重」が叫ばれた
時代背景は今とまったく違いますが、驚くほど現代の議論と重なる部分があります。
第二次個性ブーム:1980〜90年代
そして現在も続く第二次個性ブームは、1980〜90年代に始まりました。ここでも似た構造が繰り返されます。
- 高校進学率が9割を超え、「準義務教育」「全入時代」に
- 多くの子が学校に通うことで、学校の問題が表面化した
この「進学率が上がると個性が叫ばれる」という流れには、一定の再現性(同じことが繰り返し起こる性質)があるのかもしれません。
学校問題と『窓ぎわのトットちゃん』
第二次ブームを語るうえで欠かせないのが、当時表面化した学校問題と、一冊のベストセラーです。個性が注目された背景には、社会の閉塞感がありました。
「校内暴力」から「不登校」へ
この時代、学校をめぐる言葉が次々と変化していきました。言葉の変化は、社会の見方の変化そのものです。
- かつて多かった「校内暴力」が「いじめ」という言葉に変わっていった
- 「登校拒否」が「不登校」へ——生徒側の問題ではなく、学校側にも問題があるという意味合いを込めた変化
こうして「学校自体に問題があるのでは?」という視点が広まり、その解決策として個性が語られ始めたのです。
ベストセラーが火をつけた
この流れを一気に後押ししたのが、黒柳徹子さんの『窓ぎわのトットちゃん』(1981年出版)です。学校になじめず「問題児」のレッテルを貼られた著者が、個性を重視する学校に移り、生き生きと変わっていく——そんな自伝的な物語でした。
「学校って窮屈だよね」という閉塞感が蔓延する中に、「個性尊重って素晴らしい」という理想像が提示され、大ベストセラーとなったのです。
「自由化」を「個性化」と言い換えた政治のカラクリ
ここからは少し政治的な話になります。個性という言葉が、実は批判を避けるための“言い換え”として使われた歴史をご紹介します。
臨時教育審議会と「個性重視の原則」
同じ頃、教育政策を議論する「臨時教育審議会(臨教審)」で、「教育の自由化」が話し合われていました。しかし、この言葉には強い反発がありました。
- 「自由化」というと、勉強するもしないも自由という受け取られ方をする
- お金儲け目的の参入を招き、公教育が崩壊するという反論が出た
そこで登場したのが言い換えです。「教育の自由化」ではなく「学校の個性化」と表現することで、批判をかわそうとしたのです。
新自由主義の流れの中で
1980年代は、電電公社がNTTに、国鉄がJRになるなど、民営化・規制緩和が進んだ時代でした。この新自由主義(市場競争を重視する考え方)の流れの中で、教育の自由化も議論されました。つまり——
- ベストセラーによる「個性尊重」への共感
- 学校問題への危機感
- 批判を避けるための政治的な言い換え
これらが複雑に絡み合って、第二次個性ブームは形づくられていったのです。「個性が大事」という言葉は、純粋な理想だけでなく、かなり“作られた”ものでもあったといえます。
「尊重」から「重視」へ—変わってしまった個性の意味
第二次ブームには、第一次と決定的に違う特徴がありました。それは、個性そのものが“価値”や“目標”になってしまったことです。
個性的でなければいけない、というプレッシャー
大正時代の個性ブームは「個性を尊重しよう」というものでした。しかし第二次ブームでは、「個性を重視しよう」へと変わっていきます。
- 尊重:ありのままの個性を大切にする
- 重視:個性的であること自体が目標になる
この変化によって、「個性がない=悪いこと」という文脈が生まれました。「普通」「平凡」「凡人」といった言葉がネガティブに使われるようになったのも、この流れの中でのことです。
「一億総中流」が生んだ差別化の欲求
社会学者の見立てによれば、この変化は経済状況とも深く関わっています。高度経済成長を経て、1980年代の日本は「一億総中流」——みんなが豊かで差がつかない社会になりました。
差がつかないからこそ、「自分は何者なのか」「他と何が違うのか」を求める気持ちが、とくに若者の間で強まったのです。SMAPの「世界に一つだけの花」に象徴される「オンリーワン」志向も、この時代の空気を映しています。
ちなみに、あの歌詞の「花屋の店先に並んだ花」は、すでに競争を勝ち抜いた花たち——という指摘もあり、なかなか考えさせられます。
就活で求められる「個性」という矛盾
「個性的であれ」という圧力は、実は今の私たちの身近なところにも強く表れています。とくに就職活動の場面では、その矛盾がはっきりと見えてきます。
オリジナリティを求めた結果、みんな同じに
就活では「学生時代に力を入れたこと(ガクチカ)」など、オリジナリティを求められます。ところが——
- 差別化しようとして、多くの学生がカンボジアに学校を建てる
- 結果として「バイトリーダー」「副部長」の話が量産される
オリジナリティを追い求めた結果、かえってみんな似てしまうという皮肉な状況が生まれています。
「そんな個性、みんなにあるわけない」
ある学者は、こう指摘しています。「みんなが個性的でなければいけない」となったとき、誰もが分かりやすい実績やエピソードを持っているわけではありません。むしろ持っている人のほうが少数です。
その結果、「自分には個性がない」と悩む新しい苦しみが生まれています。しかも会社の採用では、企業が求める形の個性に合わせなければならない——つまり、個性は強制的に作り上げるものになってしまっているのです。
「得意」と「個性」は本当に同じもの?
ここまで見てくると、そもそも「個性とは何か」という最初の問いに立ち返らざるを得ません。私たちは、個性を能力とごちゃ混ぜにして語っていないでしょうか。
能力の話とすり替わっていないか
他人との差別化のために「能力がなければいけない」という話と、「個性が大事」という話は、本来まったく別のものです。しかし現代では、同じ文脈で語られがちです。
- 国語力・算数力・英語力・…そして「個性力」のように扱われる
- 「得意・不得意」がそのまま「個性」として語られる
「国語が得意な子は国語をもっと伸ばそう」——これは本来、個性の尊重とは別の話のはずです。ところが「個性」という言葉には、いろいろな背景を全部取り払って一括りにしてしまう“便利さ”があります。だからこそ厄介なのです。
個性を理解するには「人権」の理解が必要
個性がこれほど設計され、能力とすり替えられてきた背景を考えると、「個性とは何か」を本当に理解するには、その根っこにある人権の考え方まで掘り下げる必要がありそうです。
「あなたらしさを大切に」という言葉を鵜呑みにする前に、その言葉が誰によって、どんな事情で作られてきたのかを知ること。それが、個性というプレッシャーから少し自由になる第一歩なのかもしれません。
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