「勉強ができる」とはどういうことなのか。学力で学校を分けることは正しいのか。今回は、教育における「採点」と「評価」の違いから、能力主義の難しさまで、対話形式で語り合った内容をお届けします。中高生も保護者も、一度は立ち止まって考えたいテーマです。
「採点」と「評価」は分けて考える
テストや課題を見るとき、私たちはつい「点数をつける」ことと「良し悪しを決める」ことを一緒にしてしまいます。でも、この2つは本来別のものです。ここを切り分けると、教育の見え方が変わってきます。
採点はAIで多様化できる
共感力や事実の反映、歴史的背景の理解など、細かいフィードバックは今後AI(人工知能)を使えば十分に可能になっていきます。一人ひとりの答案に対して、丁寧に「ここはこうだね」と返すことが、これまで以上にできるようになるのです。
難しいのは「評価=序列づけ」のほう
問題は「評価」、つまり良し悪しをつけて順位を決めることです。番組ではこんな考え方が示されました。
- 基準を1つに決めず、多様なものさしで見る
- 良し悪しの「上下」をつけない形にする
- そうすれば、多様性(いろいろな個性)が守られる
たとえば「成績をつけません」となれば、多様性は担保されます。けれど、そこで必ず立ちはだかるのが「受験」というシステムなのです。
学力で学校を分けるのは「悪」なのか
「学力で高校が分かれるのはどうなの?」という問いは、多くの人がモヤモヤを感じるところです。でも、現場の視点で考えると、分けることには確かな「必要性」があるのです。
授業が成り立たなくなるという現実
たとえば連立方程式(2つの式を同時に解く計算)すら難しい生徒と、鼻歌まじりで解ける生徒が、同じ教室で微分・積分の授業を受けられるでしょうか。学力差が大きすぎると、授業そのものが崩壊してしまいます。
- 中学校の内容からやり直す必要がある子
- 高校の難しい内容に進める子
この差が激しいと、同じクラスでの授業は現実的に難しい。だからこそ「分ける必要性」は確かにある、というわけです。
問題は「序列」になってしまうこと
分けること自体は必要でも、それが「上下(序列)」になってしまうのが悩ましいところです。番組ではこんな理想が語られました。
- 「これは上下ではなく、違いです」と言えるようにする
- 国数英理社の点数だけでなく、別のものさしで分類する
ただし、これを突き詰めると、かつての職業教育や工業学校の細分化と同じ道をたどってしまう懸念もあります。「多様化しよう」と分けすぎても、それはそれでうまくいかなかった歴史がある。考えるほどに、議論はぐるぐると回り続けるのです。
結局、何を「良し」とするかは世間が決めている
大学も企業も、本当は序列ではないはず。研究したい人は進学し、そうでない人は別の道を選ぶ。それでいいはずなのに、なぜ構造が変わらないのでしょうか。
カギは「世間の感覚」と「企業の採用」
「頭がいい人がすごい」と世間が思っている限り、今の構造は変わりにくい。逆に、頭の良さ以外の指標(コミュニケーション力など)が評価されるようになれば、社会は少しずつ多様化していきます。
- 世論・世間の「すごいの基準」が構造を支えている
- 企業の採用基準が変われば、流れも変わるかもしれない
「どこから変えれば正解なのか」――この問いに、簡単な答えはありません。
それでも「ちゃんと勉強する」ことの価値は上がっていく
序列はよくない、という話の一方で、語り手が強く言っていたのが「ちゃんと勉強することは、ものすごく大事」という事実です。むしろこれからの時代、その価値は跳ね上がっていきます。
同じような高校生活でも、差はあとから出る
ある語り手は、国立大学から私立大学の大学院へ(教授と一緒に)移った経験を語っています。そこで実感したのが、基礎学力の差でした。
- 論文を読み込む力に差がある
- パワーポイントにまとめる力にも差がある
同じように受験勉強をしてきたように見えても、積み重ねてきた勉強の「量」が、大学3年生になって如実に表れてくる。これはまさに「基礎学力」の話なのです。
偏差値の数字だけでは比べられない
国立と私立では、受験科目も母集団も違うため、偏差値の「ものさし」自体が異なります。数字の上では私立のほうが高く見えても、求められる勉強量はまた別の話。単純な数字の比較では見えないものがあるのです。
「よく分からないけどやった」が、あとで効いてくる
勉強の価値は、テストの点数だけにあるのではありません。一見ムダに見える積み重ねが、思わぬ場面で力になる――この感覚は、多くの人が経験しているのではないでしょうか。
人間の学びはAIと似ている
AIは、よく分からない大量のデータを入れ続けると、ある時点から驚くほど良い答えを出し始めます。しかも「なぜそうなるのか」はまだ完全には分かっていません。
これと同じことが、人間にも起きています。何でも検索すれば出てくる時代でも、自分の中にどれだけインプットしているかでアウトプットは変わる。だからこそ「勉強は大事」なのです。
「頑張る」「努力」「能力」を問い直す
序列はよくない、好きなことをやればいい――そう言いつつも、現実はそう単純ではありません。「能力」という言葉を、私たちはあまりに無自覚に使っているのかもしれません。
「好きなことだけ」では回らない現実
「好きなことだけやればいい」と言うと、多くの人は結局、時間を浪費する選択をしてしまいがちです。「世界一になる」と口にしても、実際には何もしないまま――そんな姿も珍しくありません。だからこそ「努力できること」自体が一つの力になっています。
努力主義が「格差の再生産」につながる側面
ここで気づきたいのが、「自分は努力が好きだから頑張れた」という感覚が、知らず知らずのうちに格差を再生産している可能性です。語り手はこう振り返ります。
- 「これは自分の好き嫌い・好みの話だ」と気づけるようになった
- 「自分が努力好きなだけ」と、自分の思い込みにブレーキをかけられるようになった
- 「能力」という言葉を使うことに、毎回迷うようになった
勉強したことで、かえって日常で「その能力ってさ…」と立ち止まるようになった。私生活に支障をきたすほど(笑)、考えが深まったのです。
答えは出ない。でも、問い続けることに意味がある
今回の対話は「結局どうすればいいか分かりません」という結論で終わりました。けれど、それでいいのです。大切なのは、こうした視点を踏まえたうえで議論ができること。それだけで、社会は少しずつ良い方向へ進んでいきます。
「能力って何だろう?」――この問いを、ぜひあなたの身近な場面でも持ち続けてみてください。きっと、これまでとは違う景色が見えてくるはずです。
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