「能力の違い」で本当に説明できるのか
今回は前回に続いて「メリトクラシー(能力によって評価や地位が決まる仕組み)」について考えます。給料の差、学力の差——それらを「能力の差」と言い切ってしまう社会のあり方に、あえて疑いの目を向けてみましょう。
同じ努力なのに、なぜ給料は違うのか
まず身近な例から考えてみます。同じ業種でも、まったく違う仕事でも、給料には大きな差があります。この差は、私たちが当たり前のように「能力が違うからだ」と納得してきたものです。でも、それは本当なのでしょうか。
大学院生である家本さんはこんな本音を語っています。
- 研究職は高度な専門能力を持っているのに、給料が特別高いわけではない
- 英語や国語の読解など、特定の能力では自分の方が上でも、給料は相手の方が高いことがある
- 給料の差は、自分の能力よりも「勤めている会社の評価」や「年功序列」で決まっている面が大きい
ここから見えてくるのは、「能力」という言葉が、給料の差を私たちに納得させるための便利な説明として使われているのではないか、という視点です。
「給料を上げたければ自分で能力をつけて」は正しい?
近年、リカレント教育(学び直し)やリスキリング(新しいスキルの習得)がさかんに言われています。国も「給料を上げたいなら自分で学び、能力をつけてください」というメッセージを発しています。
しかし、これは少し立ち止まって考える必要があります。給料を上げることは、本当に個人の努力だけの責任なのでしょうか。
- 高い能力を持つ研究者が、必ずしも多く稼げるわけではない
- 一方で、どんな価値を生んでいるのかよくわからなくても高収入の人もいる
それなのに「あなたの頑張りが足りないから給料が上がらない」と言われる。この構造には、もっと疑問を持ってもいいのではないか、というのが今回の一つ目の問題提起です。番組では「マンションの価格は、私たちが能力をつけても変わらない」という例えも出てきました。個人の努力ではどうにもならない要素が、社会には確かに存在するのです。
努力信仰と「平等の建前」という矛盾
メリトクラシーは「努力すれば報われる」という努力主義への信仰と深く結びついています。しかし、そのスタートラインは本当に平等なのでしょうか。教育の現場から見ていきます。
スタートラインはそもそも違う
教育社会学には「文化資本(家庭から受け継がれる文化的な環境や習慣)」という考え方があります。たとえば家にどれくらい本があるか、どれくらい本を読む習慣があるか——こうした環境によって、学力はかなり左右されるという研究があります。
さらに、子どもによって得意な認知の仕方も違います。
- 文字・数字・記号を操るのがもともと得意な子
- 一つひとつ論理を丁寧に追っていくのが得意な子
- 抽象的なものを感覚でつかみ、あとから細かく分解していく子
このように、学校での成功と失敗を左右する要因は無数にあります。それなのに、学力を測るテストは一つだけ。「努力すれば全員100点が取れる」「子どもには無限の可能性がある」という、一見とても平等に見える思想のもとで運営されています。
「能力」という虚構が矛盾を隠している
ここに大きな矛盾があります。目指しているのは平等なのに、実態はすでに不平等——家庭環境の差からスタートラインが違っているのです。
たとえば、家にたくさん本がある家庭とない家庭。スタートラインが違うのに、「同じように勉強すれば満点が取れる」という前提でテストが組まれます。そこで生まれた差を「能力の差」と呼んでいる。この矛盾を納得させるために、「能力」という言葉が使われているのではないか、という指摘です。
突き詰めれば、「良い家庭環境に生まれる能力」、いわゆる「親ガチャ」の話にもつながっていきます。
学歴主義から能力主義へ、そしてどこへ
日本の評価のあり方は、時代とともに変わってきました。その変遷をたどると、私たちが今どんな課題に直面しているのかが見えてきます。
評価の基準は移り変わってきた
もらえるもの(資源)の多い・少ないを何で決めるか。その基準は歴史の中で変わってきました。
- 身分・生まれ:貴族・王様・農民など、身分が固定されていた時代
- 学歴:生まれで決まるのは良くない、という考えから登場
- 思考力・判断力など:学歴主義への反省から、多面的な評価へ
ところが、多面的に評価しようとすればするほど、基準はどんどん抽象的になり、最終的には「地頭(じあたま)」や「その人の個性」といった、個人ではどうしようもない領域に迫っていきます。
「学歴の方がまだ平等」かもしれない
意外に聞こえるかもしれませんが、番組では「学歴の方がまだ平等では?」という視点も出てきました。もちろん学力にも家庭環境や地域による格差はあります。しかし、「生きる力」や「個性」で入試の結果が決まるとなると、それはもっと個人ではどうにもならない、その人の根っこの部分に踏み込むことになりかねません。
「では個性を評価するのか?」となれば、今度は「差別だ」という声も出てくるでしょう。評価の基準を多様にするほど、新たな難しさが生まれてしまうのです。
「どう選ぶか」より「なぜ選ぶのか」
ここで一番大切な問いが浮かび上がります。資源が限られている以上、分配は避けられません。でも、私たちが本当に考えるべきなのは、その先にある根本的な問いなのです。
選抜そのものを問い直す
限られた資源を誰にどう分けるか。そこに理由をつけるために「能力がない」といった説明が使われてきました。しかし、「どう分けるか」より「なぜ分けなければいけないのか」を問わないと、何も変わらないのではないか——番組ではそんな指摘が紹介されています。
これは学校にも当てはまります。たとえば、
- もし成績をつけなかったら、高校進学はどう決めるのか
- 選抜をやめて全員をごちゃ混ぜにしたら、学力差が大きすぎて授業が成立しない
「何もわからない生徒」と「中学の勉強は楽勝だった生徒」が同じ教室で学ぶのは、現実的には難しいのです。
「なぜ選ぶのか」で評価軸は変わる
だからこそ「なぜ選ぶのか」という目的が重要になります。
- 最先端の研究に携わりたい人を選ぶなら、学力で成績をつけるのは理にかなっている
- ものづくりやITに熱中するのが得意な人を求めるなら、別の軸で選ぶべき
「どうやって選ぶか」よりも「何のために、なぜ選ぶのか」。ここを問い直すことが、教育を考える大切な論点になります。そのためには、中学段階での進路の選び方や、「みんなが当たり前のように普通科へ行く」という前提そのものを見直し、多様性を認められる社会にしていく必要があるのかもしれません。
難しい課題ですが、一人ひとりを丁寧に見取る(観察し理解する)ことに、AIなどの技術が力を貸してくれる可能性もあります。「能力」「努力」「評価」——当たり前だと思っていた言葉を、もう一度自分の頭で問い直してみることから始めてみませんか。
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