「算数の能力なら測れるはず」と思っていませんか。今回は、同じ答案でも点数が大きく変わる実験を通して、「能力を測る」とはどういうことかを一緒に考えていきます。前回までの「能力は暫定的なもの」という話の続きです。
「読解力テスト」への素朴な違和感
国語のテストで「おじいさんの気持ちを答えなさい」と問われ、「知るか」と思った経験はありませんか。多くの人が一度は感じる違和感には、実は深い理由が隠れています。
有名な話として、大学入試の問題文を書いた著者本人が解いてみたら「全部当てはまるから全部マル」と答えた、というエピソードがあります。読解力(文章を読み取る力)は、テストの正解という形では証明しにくいものなのです。
- 「分かってほしいこと」を推測して答える作業になりがち
- 著者の意図とテストの正解が一致するとは限らない
- 得意な人ほど「採点者の望む答え」を感覚的に当てている
では、こうした曖昧さは「文系科目だから」なのでしょうか。次は、もっとも客観的に思える算数を見てみましょう。
算数の採点をめぐる、驚きの実験
「算数の計算問題なら、できる・できないは明らかだろう」――そう思う人は多いはずです。しかし、ある実験はその常識をくつがえします。
2つの答案を、自由に採点してもらう
実験では、大学生に算数の採点をシミュレーションしてもらいました。用意したのは2つの答案です。
- Aさん:計算問題はできているが、文章問題ができていない
- Bさん:計算問題は間違っているが、文章問題ができている
採点基準(どの問題を何点にするか、部分点をつけるか)はすべて採点者の自由。その上で、100点満点で点数をつけてもらいました。
同じ答案なのに、結果がバラバラ
結果はこうなりました。
- Aさん(計算が得意)の方が高得点だったケース:約60%
- Bさん(文章問題が得意)の方が高得点だったケース:約38%
- 同点:約2%
つまり、まったく同じ答案でも、採点する人が変われば「Aさんの勝ち」にも「Bさんの勝ち」にもなってしまうのです。さらに驚くのは点数の幅です。
- Bさんの答案:下は45点〜上は76点(31点の開き)
- Aさんの答案:下は55点〜上は85点(30点の開き)
白黒はっきりつけられると思われている計算問題ですら、採点基準を自由にすると30点も結果がブレるのです。
点数がブレるのはなぜ?採点基準という「誰かの判断」
「自由に採点していい」と言われた瞬間に、人それぞれの価値観が点数に表れます。何を重視するかで、評価はまったく違うものになるのです。
採点をブレさせる要素には、こんなものがあります。
- 計算問題と文章問題、どちらを重視するか
- 計算式を重視するか、答えが合っていればいいか
- 「2×3」と「3×2」のかけ算の順序を区別するかどうか
- 文章問題に部分点を出すかどうか
- 不自然な計算式に採点者が気づくかどうか
ふだん私たちが受ける算数のテストで点数がブレないのは、能力が完璧に測れているからではありません。採点基準が誰かによって統一されているからブレないだけなのです。
「算数ができる」とは、どこまでの話なのか
ここから見えてくるのは、テストの点数が示すものの限界です。算数のテストで点が高いということは、正確にはこういう意味になります。
- そのテストの問題形式において
- その問題を作った人の考えのもとでは
- 算数ができる、と言える
これだけの前提条件がついて、ようやく「この場面では算数ができる」と言えるのです。象徴的な例があります。ブラジルで正規の学校教育を受けていない子どもに計算問題のペーパーテストをやらせると、まったく解けません。ところが同じ子が、路上の商売では複雑な料金やお釣りの計算を見事にこなすのです。さて、この子に「算数の能力」はあるのでしょうか。
「分かる」とはどういう状態か
読解力の話に戻ります。「文章が分かる」とは、いったいどういう状態なのでしょう。これを言葉で説明するのは、大人でも意外に難しいものです。
ある考え方では、「分かった」とは「分からない部分が見つからない、という安定した状態」だとされます。ここに落とし穴があります。
- 「分かった」と思うと、それ以上深く考える必要を感じなくなる
- 本当は「より分かる」という先があるのに、手前で止まってしまう
- むしろ「まだ分からない」という方が、学びとしては正確なことがある
子どもに「分かった?」と聞いて「分かった」と答えても、「人に説明してみて」と言うとできないことがあります。それは「分かったと思える段階」までは届いていても、説明できるほどには分かっていない、ということなのです。
「コミュ力がない」で落ち込まないために
ここまでの話は、就活や仕事で悩む人にこそ届けたい内容です。とくに「コミュニケーション能力」という言葉には、大きな落とし穴があります。
コミュニケーション能力を「その人個人の中にある力」と考えるのは、実はかなり無理があります。
- A君とは話が弾むのに、Bさんとは続かない、ということが起こる
- A君と話す姿を見れば「コミュ力が高い」と評価される
- Bさんと話す姿を見れば「コミュ力が低い」と評価される
同じ人なのに、相手や場面によって評価は正反対になります。その人のすべてを観察し続けて判断するのは不可能ですから、「コミュ力を測る」こと自体に無理があるのです。
面接で落ちて「自分はコミュ力がないからだ」と落ち込む人は多いものです。けれど、コミュ力とはそんなに単純なものではありません。実際、「私はコミュ障なんです」と理路整然と相談に来た生徒に「それだけ説明できるなら十分コミュ力ありますよ」と返した、という笑い話もあるほどです。
曖昧なものを「絶対」として語らない
能力という言葉は、私たちの日常にあふれています。だからこそ、その曖昧さを知っておくことが大切です。
今回見てきたように、算数の点数でさえ採点者しだいで揺れ、「分かる」や「コミュ力」はもっと曖昧です。それなのに、私たちはしばしばこうした能力を「絶対にそうだ」と決めつけて話を進めてしまいます。
- テストの点数は「ある条件下での評価」にすぎない
- 「能力がある/ない」は、相手や場面によって変わる
- 曖昧なものを断定して語るのは、慎重になった方がいい
この視点を持つだけで、自分や他人を見る目が少し優しく、そして正確になります。点数や評価に振り回されすぎず、「これは何を測っているのか」と問い直す習慣をつけていきたいですね。
もっと詳しく知りたい方へ
ポッドキャストでさらに詳しく聴けます。
🎙️ ポッドキャストで聴く →