「主体性のある人を育てよう」と学校では言われますが、実は今の教育制度そのものに、それを阻む構造があるのかもしれません。今回は「学びとキャリアの交差点」の主体性編第3回として、教育制度の構造的な矛盾について考えていきます。
学習指導要領が掲げる「主体性」とは
そもそも日本の教育は、公式に「主体性のある人材」を育てることを目標に掲げています。しかし、その中身をよく見ると、いくつかの矛盾が見えてきます。
「一斉授業」から「探究学習」への変化
かつての学校教育は、先生が黒板の前で一方的に教える「一斉授業」が中心でした。しかし「これは主体性を育てないよね」という反省から、近年は「探究学習(子どもが自らテーマを設定し、調べ・考える学び)」が広がっています。
ところが、こんな批判もあります。
- 一斉授業は「正解」をそのまま与えるやり方
- 探究学習は「正解」に自分で向かわせるやり方
- 結局どちらも「決められた正解に向かいなさい」という点では同じ
つまり、やり方が変わっても「正解ありき」の構造が残っているため、本当の意味での主体性にはなっていないのでは、という指摘です。なかなか耳が痛い話ですね。
「正解を教えること」は本当に悪なのか
とはいえ、これに対する反論もあります。「正解すらなければ、そもそも教育は何も教えられない」という視点です。
学習指導要領には「習得・活用・探究」という言葉が並んでいます。
- 習得:計算のやり方など、知識や技能を身につける段階
- 活用:身につけた力を実際の問題に使ってみる段階(例:農地の面積を計算する)
- 探究:答えのない問いに自分で向かっていく段階
正解を教えること自体が間違いなのではなく、「正解を教えて終わり」にしてしまうことが問題なのです。その先を用意できるかどうかが鍵になります。
探究学習の「格差」という現実
探究学習は理想的に聞こえますが、実際の学校現場では大きな差があります。ここに、見過ごせない社会問題が隠れています。
本当に主体的な探究の例
ある私立学校では、子どもが「仮面ライダーはなぜ人気なのか」を探究した例があります。
- 最初は既存の仮面ライダー一覧を調べて統計を取る
- 次に「もっと人気の出る仮面ライダーを作れないか」と自作を始める
- さらに「仮面ライダーは動くもの」と気づき、ジオラマやフィギュア劇場を制作
大人が答えを知らないテーマだからこそ、子どもが本当に主体的に学び、算数の統計や図工の表現を自然に活用していったのです。
「よくある探究」に潜む問題
一方で、多くの学校の探究学習は「地域おこしのために古民家カフェを作る」「地元のお祭りを企画する」といったパターンに収束しがちです。先生の頭の中にすでに想定があり、そこへそっと誘導してしまうため、結局は主体的とは言えなくなってしまいます。
そして重要なのは、先ほどの仮面ライダーの例は「お金持ちの私立学校」だったという事実です。
- 12人に1人の割合で先生がいるほど人材が豊富
- 設備も資金も十分にある
- 子どもたちにもともと知的好奇心が育まれている
つまり、理想的な探究には「余裕」が必要であり、すべての学校で実現できるとは限らないのです。これは教育の機会格差という、私たちの身近にある社会問題そのものです。
それでも学校で探究をやる意味
「探究なんて自分でやればいい」「学校でやる必要があるのか」という批判もあります。それでも学校で行う意味を考えてみましょう。
教育学には「日本国民みんなが平等に受けられる機会を保障する」という大切な考え方があります。
- 「家で勝手にやっておいで」では、探究に一度も触れずに大人になる人が出てしまう
- だからこそ、国が「探究の時間を作りなさい」という大枠を定める必要がある
- 中身の質には地域や学校で差があっても、機会そのものは用意しておくべき
言われたことをこなすだけで生きてきた大人も少なくない中で、「探究する時間と枠組み」を用意することには、やはり意味があるのです。
「大量に暗記して吐き出す」教育と主体性
日本の教育の特徴として、よく語られるのが「効率重視」の構造です。ここにも主体性を阻む要因があります。
効率が主体性を「邪魔」にする
日本の教育では、「迅速に・大量に・正確に」情報を覚えて、そのまま吐き出す能力が高く評価されます。入試がまさにその典型です。
ところが、この能力に主体性は必要ありません。むしろ邪魔になります。
- 「なぜだろう」と考えるより、公式に当てはめた方が速くて楽
- 間違いを避け、試行錯誤せずに正解に飛びつく方が高評価
- 結果として、主体性が「足かせ」になってしまう
ヨーロッパの一部では「正解にたどり着いたか」よりも「試行錯誤したか」が評価される仕組みもあります。評価の仕方が変われば、教育のあり方も変わる可能性があるのです。
共通テストは変わったのか
大学入試センター試験は「共通テスト」に名前を変え、「思考力・判断力・表現力」を重視すると掲げました。しかし実際には、多くが四択問題のまま。過程を評価するのは難しく、結局は「覚えたものを吐き出す」レベルにとどまっているという指摘もあります。ここは、評価と入試制度が変われば、教育も変わっていくのかもしれません。
「主体性を強調する」こと自体の矛盾
最後に、もっとも根本的な矛盾を見てみましょう。それは「主体性を育てよう」という号令そのものが、主体的ではないという逆説です。
上からの号令という矛盾
文部科学省が「主体性を重視しなさい」と学校現場にルールとして命じる——この時点で、すでに主体的ではありません。
- 先生は「やらなければいけないこと」として主体性教育に取り組む
- 先生自身が主体的でないのに、子どもの主体性を育てられるのか
- 決められた目標に向かって進むこと自体が、主体的とは言えないのでは
構造そのものが、どこか「バグっている」ようにも見えます。
「自由にさせれば主体的になる」わけではない
では、子どもを完全に自由にすれば主体的になるのでしょうか。おそらく、そう単純ではありません。「何もしなくてもお金をあげるから自由に生きて」と言われたら、多くの人はただ寝て過ごしてしまうでしょう。人間とはそういうものです。子どもを美化しすぎるのも危険なのです。
だからこそ、明確な代替案を出すのは非常に難しい。指針がなければ向かう方向も定まりませんが、指針を与えれば主体性が損なわれる——このジレンマこそが、教育の構造的矛盾の核心と言えます。
「他者の目」から自由であること
そもそも主体的であるとは「他人の言葉に左右されない」「自分の軸がある」という状態です。他者の眼差しから自由であることと、主体性はとても近い関係にあります。
ところが、もし誰かから「あなたは主体性が足りないよ」とフィードバックを受け、それに従って自分を変えようとすれば——それはすでに他者に影響されている、つまり主体的ではなくなってしまう。ここにも、深い矛盾が横たわっているのです。
まとめ:矛盾を知ることから始める
今回見てきたように、日本の教育には主体性を育てにくい構造がいくつも存在します。
- 「正解ありき」の学びから抜け出しにくい
- 探究学習の質には大きな格差がある
- 効率重視の評価が主体性を邪魔にしてしまう
- 「主体性を強調する」こと自体が矛盾を抱えている
すぐに解決できる問題ではありませんが、この構造を知っておくことは、保護者にとっても、これからを生きる中高生にとっても、大きな意味を持つはずです。「なぜ主体的になりにくいのか」を理解することが、その第一歩なのかもしれません。
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