「主体的に」と言われても、実はよくわからない
学校でも会社でも「主体的に行動しよう」とよく言われます。でも、その「主体性」が何を指しているのか、きちんと説明できる人は少ないのではないでしょうか。今回は哲学者サルトルの視点から、この言葉の正体に迫ります。
身近なのに、定義があいまいな言葉
「宿題をやってくればそれで主体的なの?」と聞かれると、案外答えに詰まってしまいます。実は「主体性」という言葉は、教育・企業・国際機関など、使われる場面によって意味が少しずつ違っています。まずはその根っこを、哲学から掘り下げてみましょう。
サルトルの前提「実存は本質に先立つ」
主体性を理解するには、フランスの哲学者サルトルが立っていた前提を知る必要があります。キーワードは「実存主義(じつぞんしゅぎ)」という考え方です。
実存主義とはどんな考え方か
実存主義とは、ざっくり言うと「神が存在しない世界で、人間は自分が何者かを自分で決めるしかない」という思想です。有名な「実存は本質に先立つ」という言葉は、次のような意味を持ちます。
- まず「人間が存在している」という事実がある
- その後で、自分が何であるかを自分で付け足していく
- だから人間は、自分がなるものを自由に選び取れる
つまり、人は最初は「空っぽの器」で生まれ、あとから選択や経験によって「自分」が形づくられていく、という発想です。
対比すると見えてくる:本質主義・決定論
実存主義は、他の考え方と比べるとわかりやすくなります。
- 本質主義(ほんしつしゅぎ):人はあらかじめ決められた本質・使命・才能を持って生まれる、という考え。プラトンのイデア論やキリスト教的な「生まれながらの使命」がこれに近いです。
- 決定論(けっていろん):人間の行動や運命は、社会や遺伝子によって決められている、という考え。
これらは「あらかじめ決まっている」という発想ですが、実存主義は真逆で、「あとから自由に決める」ことを重視します。だからこそ、実存主義では「自由」が決定的に大切になるのです。
サルトルが言う主体性とは「自由+責任」
実存主義の「自由」という考え方が、そのまま「主体性」につながっていきます。サルトルの主体性は、二つの要素がセットになっています。
自由は「人間になるための根本条件」
サルトルにとって、自由は人間であるための根本的な条件です。空っぽの器に、自分の選択や経験によってキャラクターや個性が付け足されていく。だから、自由がなければ「自分」というものが生まれない、という理屈です。
言い換えれば、人間は常に「選択せざるを得ない存在」であり、その選択を通じて自分自身を定義していくのです。
選んだことに全責任を負うのが主体性
ここで大事なのが「責任」です。サルトルは、選択を他人や社会のせいにすることを「自己欺瞞(じこぎまん=自分をごまかすこと)」と呼びます。選択の責任から逃げている状態です。
そのため、彼はこう考えます。
- 人間は、自分の存在の全責任を負う「主体」である
- 自分の選択に責任を持つこと、これこそが主体性の核心
一言でいえば「自分で決めたことは自分で引き受ける」。これがサルトルの言う主体性です。
「立場」ではなく「どう生きるか」を選ぶ
主体性は「自分勝手」とは違います。ここを取り違えると、大切な部分を見落としてしまいます。
自分勝手との違い
「自由にやって、失敗したら勝手にすればいい」——これは自分勝手なイメージです。しかしサルトルの主体性は、外部の価値や他人の評価ではなく、自分自身の選択と行動によって「自分が何者か」を形づくる力を指します。
たとえば、次の二つの言い方を比べてみてください。
- 「私は教師である」(立場によって定義されている)
- 「私は教師として、どう生きるかを選んでいる」(自分で選択している)
後者のように、置かれた立場を「自分がどう生きるか」として引き受ける態度こそが、主体的だといえます。
「宿題をやる」も主体的になりうる
「宿題をやれ」と言われてやる場合でも、”やると決めたのは結局自分だ”という認識を持てるかどうかがポイントです。褒められたいから、怒られたくないから、といった理由があっても、「自分で選んでやっている」という態度であれば、それは主体的といえるのです。
状況を完全に自由に変えることはできなくても、その状況の中で「どう生きるかを選ぶ自由」はある。この選ぶ力こそが、主体性の中核だとサルトルは考えました。
「人間は自由の刑に処せられている」
サルトルの有名な言葉に「人間は自由の刑に処せられている」があります。これは前向きな意味ではなく、少しシビアな響きを持っています。
自由から逃げられない苦しさ
この言葉が意味するのは「人間は自由から逃げられない」ということです。自由が生きるための根本条件である以上、選びたくなくても選び続けなければなりません。
- 行動しないことも、行動したことと同じく自分の責任になる
- 誰も代わりに生きてはくれない
- 「行動しなかった」という選択の結果も、自分が引き受けるしかない
うまくいかないことを「行動しなかったせい」と考えたとき、その”行動しない”を選んだのも自分だ——そう突きつけてくるのが、サルトルの主体性なのです。
「主体性」は場面によって意味が違う
哲学だけでなく、教育や企業の世界でも「主体性」は語られます。ただし、その定義は意外とバラバラです。
さまざまな定義を並べてみる
- 教育学:主体が対象に進んで働きかける様子
- 社会人基礎力(経済産業省):物事に進んで取り組む力
- OECDのフレームワーク:自ら考え主体的に行動し、責任を持って社会変革を実現していく力
OECDになると「社会変革まで実現する」ことが求められていて、学校現場の感覚とはかなり距離があります。英語でも independence、subject、identity、agency、proactive など、複数の言葉が「主体性」に対応します。それだけ広く、時代や立場によって意味が揺れる言葉なのです。
教育現場に足りない「自由」という視点
日本の学校では、主体性が「責任」や「自立」と近い意味で語られがちです。一方で、「自由に自分で選ぶ」という観点はあまり前面に出てきません。
けれども、サルトルの考えに立てば、自由がなければ主体性は成り立ちません。「自由」というと放任主義と誤解されやすいため、学校現場では出しにくい言葉でもあります。だからこそ、「自分たちが求めている主体性とは何なのか」を、まず共通認識としてすり合わせることが大切なのかもしれません。
まとめ:あなたにとっての主体性は?
サルトルの言う主体性は「自由+責任」でした。自分で選び、その結果を引き受ける。シンプルですが、いざ自分の毎日にあてはめると重い言葉です。
「主体的に」と言われたとき、そこにどんな意味を込めているのか。生徒に、部下に、そして自分自身に何を求めているのか。一度立ち止まって考えてみると、これまで見えていなかった景色が見えてくるはずです。
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